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2015年11月18日
第四十八回 谷津山の鉄塔
先日、4歳の息子の幼稚園の行事で、谷津山へハイキングに行きました。

谷津山は静岡市の中心部にある山で、標高100mちょっと。幼稚園児でも登ることができる低い山です。
その谷津山には2本の鉄塔が建っています。
2本のうち東側の鉄塔には「東海大学」という看板が付いています。

現在この鉄塔は使われていないようですが、いまだに残されていて静岡の景観の一部となっています。鉄塔はその構造で「鉄」であることを視覚に訴えかける力強さがあります。
この鉄塔はとても歴史が古く、戦前の1931年に建てられました。谷津山の麓にある清水公園の一角には「JOPK」と記された石碑が建てられています。

JOPKとはNHK静岡放送局のコールサインで、この地にかつてラジオ放送局があったという名残です。NHKのラジオ放送局がこの鉄塔から電波を発射して放送を行っていたのですね。

日本平にもテレビ放送用の鉄塔がいくつか建っていましたが、地デジ化の際に1本にまとめられ、アナログ放送時代の鉄塔は撤去されました。そう考えると谷津山に、戦前の鉄塔が今も残っているのは奇跡かもしれません。

写真は日本平にテジタル放送用鉄塔とアナログ放送用鉄塔が両方とも存在していた時
今は左端のデジタル放送用の1本だけとなりました
この谷津山の鉄塔の設計者は内藤多仲(ないとうたちゅう)という人で、昭和の日本の代表的な鉄塔を数多く設計しています。通天閣、名古屋テレビ塔に、東京タワーも!
「塔博士」とも呼ばれ、他にも多くの鉄塔を手掛けたようです。

内藤多仲について調べてみると、鉄塔以外にも建築物の構造設計をしていたそうです。早稲田大学大隈記念講堂や明治生命本館、歌舞伎座など。ヴォーリズ建築の代表作の一つ、大阪にある大丸心斎橋店も構造設計は内藤多仲です。

(googlemapより)
この建物は今年の年末で取り壊されてしまうようなので、その前に一目見てみたいものです。
そんな有名な設計者が携わっていたと聞くと、谷津山の鉄塔も価値があるものに思えてきませんか?内藤多仲が設計した鉄塔群の中では比較的初期のもので、東京タワーよりも27年も前のものなのです。
私は大学時代、建築学科の学生でしたが、建築の勉強よりも所属していた無線部のクラブ活動に没頭しており、あまり良い学生とは言えませんでした。校舎の屋上には鉄塔が建っており、無線部の部員はそれを自由に使って実験をすることができました。鉄塔には上るための足場棒が設置されていましたが、間隔が広く、上り下りするのが少し大変でした。

実にスマートで美しいプロポーションの鉄塔でした。しかし私が在学中の間に、校舎の高層化に伴い、旧校舎と共に既に取り壊されてしまいました。有名な先生が設計したものだと先輩より聞かされていましたが、誰の設計なのかは知りません。
かつて鉄塔は、建物の屋上にモニュメント的に見えたのだろうと想像できます。そしてそれは無線通信という当時の先端技術の象徴だったのではないかと思います。
私はこれらの鉄塔や内藤多仲のことをまだまだ知りません。この原稿を書いていてとても気になる存在になったので、これから調べていこうと思います。
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執筆/片桐秀夫
Posted by 日刊いーしず at 12:00
2015年11月04日
第四十七回 今でもModernな日坂宿の旅籠 萬屋
東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんの江戸から京都への珍道中の一齣(ひとこま)。
岡部の宿を早朝に出立し、掛川の宿を目指したものの、相も変わらずあちらこちらで騒動を起こしては大騒ぎ。なんとか大井川の川越え、そして金谷の宿から日坂の宿まで峠の坂道を登る。午後になると雨はどしゃぶりになり、弥次さんが腹痛を起こす。まだ昼の2時にもならないうちから日坂の旅籠にチェックイン。というのが日坂の宿での顛末の始まりです。しかしながらここから先は、このコラムで説明するのははばかられる次第です。江戸時代の風俗のおおらかさと作者の十返舎一九の真骨頂。現代でもあるこの手の話は、色気あり、どたばたありの無茶苦茶な喜劇の元祖そのものです。興味のある方は現代語訳の本で。
さて話を建築に。
日坂の宿場にはその弥次さん喜多さんが泊まったかもしれない旅籠が残されています。

江戸末期の姿をとどめる庶民旅籠の萬屋(よろずや)です。間口が4.5間の2階建ての杉の下見板貼り、瓦葺きの建物です。昔は板葺き屋根だったかもしれません。部屋は1、2階とも大部屋で、街道の混雑具合により宿泊客を増やせるようにできています。現代で言えばユースホステルのドミトリー形式、雑魚寝でオッケーという感じでしょうか。江戸時代は他に、食事なし(自炊)の木賃宿がありますが、それより上等な風呂と食事のある庶民的な旅籠です。

正面の入り口の開口廻りの建具のデザインには興味をそそられます。引いたり外したり、また蔀戸(しとみど)のように吊り下げたり、障子戸の和紙の白と外壁の木の色の対比が絶妙です。ピエットモンドリアンの絵画のようでもあります。幕末から明治のころ、当時文明国だった欧米人が、江戸時代の日本の浮世絵や建築、工芸品を見て感じた新鮮さがうかがえます。そこに日本のmodern(モダン)を感じたことでしょう。

土間の「みせにわ」に立つと、弥次さん喜多さんが奥から着物の合わせを乱しながら、あわてふためいて、ふと飛び出してきそうです(笑)。
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執筆/天野吉尚 AMANO建築研究所 島田市在住
岡部の宿を早朝に出立し、掛川の宿を目指したものの、相も変わらずあちらこちらで騒動を起こしては大騒ぎ。なんとか大井川の川越え、そして金谷の宿から日坂の宿まで峠の坂道を登る。午後になると雨はどしゃぶりになり、弥次さんが腹痛を起こす。まだ昼の2時にもならないうちから日坂の旅籠にチェックイン。というのが日坂の宿での顛末の始まりです。しかしながらここから先は、このコラムで説明するのははばかられる次第です。江戸時代の風俗のおおらかさと作者の十返舎一九の真骨頂。現代でもあるこの手の話は、色気あり、どたばたありの無茶苦茶な喜劇の元祖そのものです。興味のある方は現代語訳の本で。
さて話を建築に。
日坂の宿場にはその弥次さん喜多さんが泊まったかもしれない旅籠が残されています。

江戸末期の姿をとどめる庶民旅籠の萬屋(よろずや)です。間口が4.5間の2階建ての杉の下見板貼り、瓦葺きの建物です。昔は板葺き屋根だったかもしれません。部屋は1、2階とも大部屋で、街道の混雑具合により宿泊客を増やせるようにできています。現代で言えばユースホステルのドミトリー形式、雑魚寝でオッケーという感じでしょうか。江戸時代は他に、食事なし(自炊)の木賃宿がありますが、それより上等な風呂と食事のある庶民的な旅籠です。

正面の入り口の開口廻りの建具のデザインには興味をそそられます。引いたり外したり、また蔀戸(しとみど)のように吊り下げたり、障子戸の和紙の白と外壁の木の色の対比が絶妙です。ピエットモンドリアンの絵画のようでもあります。幕末から明治のころ、当時文明国だった欧米人が、江戸時代の日本の浮世絵や建築、工芸品を見て感じた新鮮さがうかがえます。そこに日本のmodern(モダン)を感じたことでしょう。

土間の「みせにわ」に立つと、弥次さん喜多さんが奥から着物の合わせを乱しながら、あわてふためいて、ふと飛び出してきそうです(笑)。
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執筆/天野吉尚 AMANO建築研究所 島田市在住
Posted by 日刊いーしず at 12:00