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2015年01月23日
第二十八回 古代東海道

東京と大阪を結ぶ幹線道路の一つに東海道があります。現在の東海道は静岡県を東西に横断している国道1号線ということになります。
国道1号線を静岡市から西へ向かうと、平成及び昭和に作られたトンネルを通り、岡部にたどり着きます。この他にも、大正時代、明治時代それぞれに作られたトンネルがあり、今でも通行可能になっています。明治時代にトンネルができるまでは、歩いて宇津ノ谷峠を越えていくルートが東海道として存在していました。この東海道よりも以前には、旧東海道と呼ばれるルートがありました。これは平安時代より「蔦の細道」として知られているルートです。
さらに昔の時代に遡りますと、「古代東海道」が存在していました。平安時代よりもさらに以前の話です。古代東海道は現在の国道150号線の近くにあり、日本坂峠を越えていくルートです。
その古代東海道が今はどうなっているのか、昨年の秋に歩きに行ってみました。小坂の集落を抜け、山の中腹までは車でいくことが出来ますが、そこから先は人が一人通るのがやっとの狭い山道です。
蜘蛛の巣がたくさん張られていて、普段は人通りが少ないことが判ります。山道は所々、崩落しており、気を付けて進まないといけない場所がいくつかありました。そんな中、古代東海道の痕跡を探すと、この山道沿いに石垣をみつけました。
この石垣は、いつ作られたものなのだろう? 古代東海道として使われていた時代は、この道をどのような人が通っていたのだろう? そう考えていくうちに、タイムトリップしていきます。
日本坂峠を越え、焼津市側へ下りていくと、「花沢の里」にたどり着きます。ここでは、歴史的な木造家屋が軒を連ね、とても印象深い景観になっています。

日本坂峠の静岡市側は小坂の集落です。こちらは花沢地区ほど古い建物が残っているわけではありません。しかし、日本坂峠の歴史的経緯を考えれば、この集落の歴史も古いことが想像できます。
小坂には、この古代東海道を始めとする史実を研究されている方がいます。静岡県建築士会まちづくり委員会では、この方の講演会を行うことになりました。興味のある方は、ぜひお越しください。
講演「講演テーマ: “隠れ里”小坂と古代の東海道!」
日時 平成27年2月22日(日) 13:00受付開始 13:30講演開始
場所 小坂公民館 静岡市駿河区小坂2119番地
主催 公益社団法人静岡県建築士会中部ブロックまちづくり委員会
協力 小坂町内会
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執筆/株式会社片桐工務店 片桐秀夫
Posted by 日刊いーしず at 12:00
2015年01月08日
第二十七回 まちの記録と記憶
現在、建築士の有志にて、焼津の『浜通り』沿いに点在する蔵群を調査しており、その活動の中で出会った、まちの芸術作品について紹介します。
※焼津の『浜通り(北浜通・城之腰・鰯ヶ島)』については、第十七回の記事(「まちづくりスト」になろう)をご覧ください。

藍染作品「エンカ屋敷」 (焼津の老舗 ㈱岩清 所有 岩崎ひさ作品)
この作品を一目見て、語れる人は焼津の歴史をよく知っている人でしょう。惜しくも、作者は他界されてしまいましたが、私が成り代わり、この藍染作品という『記録:キロク』媒体を通して、そこから作者の『記憶:キオク』を読み取りながら、紹介させていただきます。
この作品は、実在した村松家(通称:江川邸や、エンカ屋敷とも呼ぶ)を題材にしています。戦前、浜通りの西側を流れる堀川の日和橋(江川橋・えんか橋とも言う)を渡った北側に、村松家の大きな屋敷がありました。史料によると、村松家は、廻船問屋、質屋なども併せ営むような、このあたり随一の豪農で、6棟の米蔵を持ち、高い塀をめぐらせた広壮な屋敷が、堀川に美しく映え、屋敷内の老松が川を覆うほどに枝を伸ばしていました。
下記が、明治中期の同位置で撮影された写真です。写真は、『記録:キロク』として、道を中心に、左に枕流亭(当時の高級料亭)、右にエンカ屋敷という構図です。一方、藍染作品の方は、左に川や柳、右に立派な老松が描かれ、中心に描かれたエンカ屋敷においては、米蔵がダイナミックに描かれており、作者の屋敷や蔵に対する思い入れを感じ、単なる記録ではなく『記憶:キオク』として表現されているように思います。

明治中期頃の日和橋通り 『市制30周年記念 写真集 ~懐かしの焼津~』より
史料によると、村松家は昔から豪農として栄える一方で、天文や天保の飢饉の際に米蔵を開放して難民を救済するという逸話が残っており、代々貧しき人々へ施すのを家風としていたため、地域の人々は村松家を敬愛の念を込めて「エンカさん」と呼んでいました。しかし、戦後の農地改革(農地解放)により一挙に没落し一族が四散してしまいます。藍染作品のダイナミックな構図と線の裏には、村松家の栄華から没落を哀れむと共に、焼津の人々を度々救ってきた感謝の念が込められているように感じます。

現在の日和橋通りは、「旧エンカ屋敷」と記したささやかな石碑が建っています。
皆さんにも、思い入れのある場所や建物、好きな街並みはありますか?
当たり前のように見慣れているものも、この先、何年後にはもう2度と見ることは出来ないかもしれません。
皆さんも、写真や風景画といった『記録:キロク』に想いを込めて、『記憶:キオク』に残してみてください。次の時代の人々が、その残された記録から、当時の記憶に浸り、きっと大事にしてくれるはずです。その連鎖が、次世代のまちづくりへ繋がってゆくのだと思います。
執筆者/小林修一級建築設計事務所 小林拓人
※焼津の『浜通り(北浜通・城之腰・鰯ヶ島)』については、第十七回の記事(「まちづくりスト」になろう)をご覧ください。

藍染作品「エンカ屋敷」 (焼津の老舗 ㈱岩清 所有 岩崎ひさ作品)
この作品を一目見て、語れる人は焼津の歴史をよく知っている人でしょう。惜しくも、作者は他界されてしまいましたが、私が成り代わり、この藍染作品という『記録:キロク』媒体を通して、そこから作者の『記憶:キオク』を読み取りながら、紹介させていただきます。
この作品は、実在した村松家(通称:江川邸や、エンカ屋敷とも呼ぶ)を題材にしています。戦前、浜通りの西側を流れる堀川の日和橋(江川橋・えんか橋とも言う)を渡った北側に、村松家の大きな屋敷がありました。史料によると、村松家は、廻船問屋、質屋なども併せ営むような、このあたり随一の豪農で、6棟の米蔵を持ち、高い塀をめぐらせた広壮な屋敷が、堀川に美しく映え、屋敷内の老松が川を覆うほどに枝を伸ばしていました。
下記が、明治中期の同位置で撮影された写真です。写真は、『記録:キロク』として、道を中心に、左に枕流亭(当時の高級料亭)、右にエンカ屋敷という構図です。一方、藍染作品の方は、左に川や柳、右に立派な老松が描かれ、中心に描かれたエンカ屋敷においては、米蔵がダイナミックに描かれており、作者の屋敷や蔵に対する思い入れを感じ、単なる記録ではなく『記憶:キオク』として表現されているように思います。

明治中期頃の日和橋通り 『市制30周年記念 写真集 ~懐かしの焼津~』より
史料によると、村松家は昔から豪農として栄える一方で、天文や天保の飢饉の際に米蔵を開放して難民を救済するという逸話が残っており、代々貧しき人々へ施すのを家風としていたため、地域の人々は村松家を敬愛の念を込めて「エンカさん」と呼んでいました。しかし、戦後の農地改革(農地解放)により一挙に没落し一族が四散してしまいます。藍染作品のダイナミックな構図と線の裏には、村松家の栄華から没落を哀れむと共に、焼津の人々を度々救ってきた感謝の念が込められているように感じます。

現在の日和橋通りは、「旧エンカ屋敷」と記したささやかな石碑が建っています。
皆さんにも、思い入れのある場所や建物、好きな街並みはありますか?
当たり前のように見慣れているものも、この先、何年後にはもう2度と見ることは出来ないかもしれません。
皆さんも、写真や風景画といった『記録:キロク』に想いを込めて、『記憶:キオク』に残してみてください。次の時代の人々が、その残された記録から、当時の記憶に浸り、きっと大事にしてくれるはずです。その連鎖が、次世代のまちづくりへ繋がってゆくのだと思います。
執筆者/小林修一級建築設計事務所 小林拓人
Posted by 日刊いーしず at 12:00